ロスジェネ創刊イベント「言論空間に挑む新雑誌」

6月27日(金) 第40回 紀伊國屋サザンセミナー ロスジェネ創刊イベント「言論空間に挑む新雑誌」 新宿·紀伊國屋サザンシアター(新宿南店7F) 〈第1部〉出演者 浅尾大輔雨宮処凛増山麗奈 〈第2部〉出演者 赤木智弘東浩紀大澤信亮萱野稔人杉田俊介

東浩紀の発言のまとめ(でも、ほかの人が言ってたことも混ざってるかもしれません)。テーマ別に階層化したので並べ替えてあるし、言い替えている部分もあります。


希望を語ることの難しさ。

  • 希望を語る言葉は強い。
    • 語られていることが正しければ人を活かすんだけど、間違いだった時にはとても人を傷つける。
      • →だから希望を語ることに躊躇せざるをえない。
  • わかりやすい敵はいない。
    • 倒すべき対象が存在しないから、希望を語ることはできない。
      • ネオリベが敵だっていうのは何も言っていないのに等しい。
      • グローバリゼーション → 悪い人がいるから、世界が悪くなっていっているわけではない。
            • 加藤智大容疑者がどこに敵を見いだすべきだったかというのを、希望を語る言葉として、僕は言えない。
    • 誰からリソースを奪うか、という形でしか、敵を設定できない。
      • →でも、そういう形で敵を見いだしてもしょうがない。


富の配分と尊厳の配分

  • 経済的な貧しさの問題と、尊厳を獲得できないという貧しさの問題を、分けて考えないといけない。
    • (富と尊厳は実際には結びついてるけど、考えるときには切り離さないといけない)
    • 尊厳の再配分
      • 難しい。
        • 理由1→ グローバリゼーション。
        • 理由2→ 情報量の多さ。
          • 人生にはさまざまな選択肢があるという情報は入ってくるけど、人生は一つしかない。そのことに耐えられなくて、尊厳を失ってしまう。*1
                • (自分と同じくらいの能力のやつが、自分よりずっといい人生を送っていることを知ってしまったりする)
                • 加藤智大容疑者の暴発は、尊厳の問題。ベーシックインカムを認めても(働かなくても生きていける社会でも)、加藤容疑者の暴発みたいなことは起こる。経済的な問題ではなく、尊厳の問題だから。
        • 尊厳を再配分するには、希望を語る言葉が有効。みんなが希望を持てれば、尊厳を持って生きていけるから。→ でも、それでいいのか?


世代間闘争の不毛さ

  • 若者論と世代論がごっちゃになっている。
    • 若者論
      • → 階級問題とか左翼問題ではなく、下の世代が割を食っているという話になってしまっている。
        • = 世代間闘争になってしまっている。
          • 加藤智大容疑者に共感しているのは、派遣労働者ではなく、加藤智大容疑者と同じ世代の人。
            • → 世代を超えた共感の力がなくなっている。
    • 世代間闘争
      • 世代間闘争には意味がない。
        • 下の世代が上の世代に「リソースをよこせ」と言って、上の世代が下の世代に「あげない」って言うだけだから。
      • (若者は不安なんじゃなくて不満。割を食わされたことに怒っている。でも、上の世代の人にはその怒りが伝わってない)


コミュニケーションスキル

  • コミュニケーションスキルなんてなくていい。粛々と自分の好きなことをやっていけばいい。
  • コミュニケーションスキルがなくて、自分に尊厳も持てなくて、それでもただだらだらと生きていくことはできるのか?(尊厳がなくても楽しく生きられるのか?) → これはわからない。難しい問題。

感想:尊厳の再配分っていうのが具体的にどういうことを意味してるのかわからなかった。試行錯誤に踏み出すための最低限の尊厳(承認)は再分配で制度的に保証しないとまずいってことなのか。自由を保証するだけじゃ足りないってことなんだと思うけど、みんなに尊厳を持たせようと思ったら、社会を規律訓練型に戻すしかないような気がする。

*1:これは宗教の問題だ。と言って、その直後に、この方向は危ない。もっと個別に細かく対処すべきことがある。と自分で自分の発言を訂正してた。

尊厳について:

「自由」よりも「尊厳」の方がはるかに願望されるところの多い概念である。この概念は[……]自己表出の成功を示すものである(ニクラス·ルーマン『制度としての基本権』 isbn:9784833221436 p.99)。

人間の自由と尊厳とが交互に条件づけあっている[。][……]問題となるのは、[……]コミュニケーション過程において個人的人格性として自己表出するための外的および内的な予備条件である。自由は、それがもし不整合な自己表出や、人間としてどこにおいても通用しないようなものにしか導かないとすれば、いかなる意味ももたないであろう。そして尊厳は、いかなる自由な行為も行為のアスペクトも存在しないのなら、表出のためのいかなる素材も見出すことはないであろう(『制度としての基本権』 p.102)。

尊厳の問題は、整合的で確信をもった自己表出の困難性という点にあり、またこのような課題に対する人間の自己責任という点にある。人間に帰属させることが可能な表出について、人間は自ら決断を下しうるのでなければならない。人間だけが人間とは何であるのかを規定しうるからである。この点においてこそ憲法は人間を国家から保護するのである(『制度としての基本権』 p.107)。